パンドラの箱に入っていたのって結局何なの?

パンドラっていうドラマをたまたま借りてきてみました。

内容は、ある医者ががんの特効薬を発見しちゃって、それは人類を救う発見であるとともに、もし世の中に広まっちゃったらみんな長生きしちゃって経済がやばいし利権争い大変だしで世界が変わっちゃうっていうまさにパンドラの箱を開ける話。

このあらすじ、すごい!でも今回書きたいのはそのドラマじゃなくて、パンドラの箱について。

 

パンドラの箱ってのは、有名な例えだと思いますが、パンドラって姉ちゃんが開けちゃいけない箱を開けたら、そこに入っていたあらゆる災厄が飛び出してきて、世の中に不幸が広がっちゃう。でも、最後に○○だけが箱の中に残ったっていう話です。

 

この○○って何だっけ?

 

ドラマの中では、「最後に残ったのは、希望とも、絶望とも言われるみたいな言い方をしているのですが、これって結局何が入っていたんだっけ?

 

というのもですね、いろんなフィクションでこのパンドラの箱が例えられているんですが、概ね「希望」なんですね。でも、「予知」とする例えも聞くんです。

僕が最初にパンドラの箱の例えを聞いたのは、たぶん漫画「ハーメルンのバイオリン弾き」だったと思います。

漫画の中では、パンドラさんが箱を開けて封印されていた大魔王ケストラーが復活してしまうっていう説明とともに、毎回「しかし箱のなかに最後に希望だけが残った」みたいなことが言われるんですね。(うろ覚え)

でもまた別の漫画「GS美神 極楽大作戦!!」では、パンドラの箱に最後に残ったのは「予知」だと言っていました。その「予知」が残ったおかげで、人は未来を知らず、希望を持って生きられると。

 

つまり、GS美神説だと、残ったのは予知=つまり希望を持って過ごせるということ。それがつまりハーメルン説の、箱の中に希望が残ったっていう意味??でもさでもさ、それだとちょっと矛盾があるんですよ。箱を開けたら災厄が飛んでったから世界に災厄が広がったとするなら、箱のなかに希望が残ったら世界に希望は広がってないじゃないですか。どういうこと??やっぱりGS美説だとハーメルン説は相容れないんじゃないか??

 

と、これが長年の疑問だったのを突如思い出し、ググってみたらWikipediaに答えがありました!結論からいうと、どちらの説もあるようです!おまけにやっぱりハーメルンの希望が残った説は、矛盾があるので主説ではないそうです。

 

パンドーラー - Wikipedia

 

パンドラの箱って何か?これはギリシア神話に出てくるもので、元々これはパンドラの「」らしいです。壺みたいなやつですね。これのフチに「エルピス」ってのが残ったらしいです。で、パンドラの箱は寓意的でよくわからないので、このエルピスの解釈がいろいろあるらしいです。以下、Wikipediaの引用。

 

希望説

希望とする説。数多くの災厄が出てきたが、最後に希望が出て来たので人間は絶望しないで生きる事が出来るとされる。特にバブリウスの物語は、「実際の幸福は逃げ去ったが、いつかは幸福が手に入るという希望が残っている」と解釈することができる。

期待説(偽りの希望説)

ゼウスが最後に入れた、もっともな災厄は偽りの希望とされる説。このため人々は絶望する事もできず、空虚な期待を抱きながら生きなければならない。

希望を災厄とする説

そもそも希望は災厄とする説。希望がある為に未来がわからず諦めることを知らない人間は、永遠に希望とともに苦痛を味わわなければならない。

プロメテウスが希望を残したとする説

災厄はもともと世界に満ち溢れていたがプロメテウスが甕の中に隠し人間の世界に行かないようにしていた。プロメテウスは捕らえられる前に甕が再び開けられてしまった時のために甕の中に希望を忍び込ませていた。

しかしこの希望説では、希望が箱に残らず飛び出していてしまっていたり、箱に残ったのに希望が世の中に広まっていたりと、物語と矛盾する要素がどうしても生まれてしまっている。この為、主説ではない。

予兆説

予兆とする説。予兆説は、箱の中に残されたので外の世界には希望があるとする見方もされる。

予知説(前兆説)

残されていたのは未来を知る予知能力であるとする説。未来で何が起こるか分かってしまうと人間は絶望して生きる事を諦めてしまう。しかし前兆が最後に残されていたので人々は絶望しないで生きられる。

ゼウスが予兆を残したとする説

ゼウスが最後に予兆が残るように仕向け外の世界に希望を残したとされる説。その為、人間は結果が分からなくなり、無駄な努力もしなければならなくなった。

 

 

と、まあこんな感じらしいです!なるほどなるほどー。

映画「ラブ・アゲイン」はラブコメ史上最高レベルの傑作!(但し邦題がひどい)

たまたまラブコメ映画が見たい、というなんだかよくわからない気分になり、「ラブコメ 映画 おもしろい」とかでググってみたらやたら好評かだったので、「ラブ・アゲイン」という映画を半信半疑で見てみました。

 

あらすじ

中年のキャルはある日突然レストランで妻から別れを告げられる。妻のことを忘れられないキャルは、バーで店員や隣の女性に誰かれ構わず愚痴リ続ける。その姿を見かねたイケメンナンパ師のジェイコブが、キャルに声をかける。いい男になって別れた妻に後悔させてやろうと。そして、キャルはジェイコブの指導の元、ダサいファッションをおしゃれに変え、バーでナンパに繰り出すのだが…


『ラブ・アゲイン』予告編 - YouTube

 

感想

あらすじだけ読むと、ああ、これはよくあるラブコメだ、と感じます。ダサい主人公がかっこ良く変身し、モテまくる。でもその他大勢にモテても意中の人は振り向かいてくれず、やはり最終的に重要なのは表面的なモテテクニックではなく、心の美しさなんだと気づく…という超ありがちな展開。でもいいんですよ。ラブコメとはお約束をいかにクオリティ高く作り上げ、120分笑いありトキメキありで楽しい時間を過ごさせてくれればいいのですから。

と、最初は想像していたのですが、全然違いました。

 

あらすじにこれ以上のことを書くとネタバレになってしまうので書けないのですが、最初の60分ぐらいが上記のあらすじで、そこからジェットコースターのような急展開を迎えます。しかし、結末はまさに王道ラブコメというハッピーさ。こんなラブコメがあるのか!という感想です。非の打ち所のない傑作なので、ぜひもうこのあとの文章を読まずに見て欲しい。先に書いておくと、このブログでこれまで紹介している映画の中で、一番ぐらいにおもしろかったです。

 

 

 

 

 

 

 

ということで、見る気がある人はこの後の文章を読まないで欲しいのですが、もうちょっと続きます。ちょっとだけネタバレ含む。

 

タイトルに邦題がひどい、と書いたのですが、この「ラブ・アゲイン」という映画は原題が「Crazy, Stupid, Love」なんですね。「狂おしく、愚かな、愛」とか、そんな翻訳でしょうか。映画全体は、そんな愛というものに対する滑稽さとかがテーマなんですね。「ラブ・アゲイン」だと、どうせキャルが離婚した妻と戻るまでの物語なんだろうな~と思ってしまうんです。しかし、それは完全なミスリード

映画の最初はキャルがイケイケナンパ師になるまでの話なんですけど、ところどころ要らないエピソードが入るんですね。師匠ナンパ師のジェイコブがナンパする話とか、その女の子がダサイ男と付き合っている話とか、キャルの息子が子守のお姉ちゃんのジェシカに惚れている話とか。

なんだこの意味わからんエピソードは、早くキャルの話だけをやれ、と思うのですが、それが終盤に全部1つのシナリオに収束されるのがまさに圧巻!ただのアホラブコメかと思いきや、邦画で言えば内田けんじとか三谷幸喜とか洋画で言えばガイ・リッチーとか、そんな感じの技巧派脚本。ムダに散らばったピースが全部つながる爽快感がたまらない。上記の監督の映画が好きな人は、絶対に見て後悔しないでしょう。

 

この映画(というかラブコメ)の素敵なところは、とにかく人生とか恋とかそういうものに対してポジティブであるところです。いろいろ問題は起こるのだけれど、それは全て人間関係のスレ違いとか自身の弱さとかそういうのに起因するもので、人生そのものに対してネガティブではない。キャルの息子はひたすらに「魂の伴侶(ソウルメイト)」という言葉を連呼します。ジェシカは自分のソウルメイトだと。13歳の少年が何を戯言を、と思うのが現実ですが、映画の中ではひたすらにロマンチックに、それが真実であるかのような夢を見させてくれます。ケンカしたり傷ついたり失ったりしながらそれでも登場人物がソウルメイトを探す姿は、まさに「Crazy, Stupid, Love」であり、とても愛おしく感じるのです。

 

評価

90点(100点満点中)

 

 

 

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サムスンのALSへの態度を批判できない

サムスンのGalaxyがアイスバケツ被った(以下IBC)ことで、概ね悪い意味で注目を集めています。


ツイッターとかで検索しても、だいたい批判ばかりです。僕も最初に話を聞いたときは、チャリティーを宣伝に利用してサムスン清々しいクソだなぁと思っていたのですが、よくよく考えると私たちはサムスンを批判できないことに気付きました。

だってIBC賛成派の人たちは、批判されるたびにあれほど言っていたじゃないですか。「やらない善よりやる偽善」って。サムスンの今回の件、これに照らし合わせれば完全にやる偽善ですよね。ギャラクシーが氷水被ったことでどれだけの人がALSを知るきっかけになったか。元々賛成派の人は、募金額が増えたり認知向上につながれば手段は問わないって言ってたじゃないですか。「明らかに営利目的なのが嫌だ」って?芸能人がやってるのも変わらないと思うし、そこも含めて「やらない善よりやる偽善」なんですよ。
また、「ネタとして全然おもしろくない」という意見もありましたが、ネタとしてのつまらなさなら、他のIBCで知らないおっさんが氷水被ってキャッキャウフフしているほうも別におもしろくないですからね。どっちもどっちです。

このように、サムスンの今回の件はIBCに賛同する人は誰も批判できないし、IBC反対派の人にもIBCをシニカルにあざ笑っている感じがして趣き深いと感じました。狙ってかどうか知らないけど。

スタンドバイミーを観た

この前友達がFacebookでスタンドバイミーを観たと書いていたので、僕も突然観たくなって観たけれど、とても良かった。以下、たぶん何度も言い尽くされた感想をもう一度。


1986年の映画。今から30年近く前。僕が観たのは小学生か中学生ぐらいのとき。
昔観たときとは全然感想が違って、僕が子供の頃にいいなぁと思ったのは、夜中焚き火をしながら語り合うシーンであったり、「○○に誓うか?」と言ったカッコいいセリフであったり、印象的なハイタッチであったり。それから大人たちの不条理さであったり。

以前はそういうディテールが良かったんだけれど、大人になってから良かったのは、ラスト5分のシーンだ。主人公はあれほど仲良かった友人たちとは中学生になるとほとんど遊ばなくなり、大人になれば一人は家庭を持ち、一人は刑務所に入り、一人は刺殺されてしまい、主人公はそれを新聞で知る。

僕はスタンドバイミーのような悪ガキ少年ではなかった。だからディテールの面で言えば共感より憧れ的な部分が強かった。子供の頃は、その箇所がおもしろいのだと思っていた。しかし、大人になると友情と別れというところがすごく共感し、この物語の本質だと感じる。

大人になるときっとほとんどがそうだと思う。というか、人との出会いと別れというのはほとんどがそうなんだと思う。あんなに仲良かった友達も、なぜかどこかに行ってしまう。

けれど、僕は彼らを嫌いになったわけでもないし、彼らのことはやっぱり胸の中でどこか特別な部分を今でも占拠しているわけで。

スタンドバイミーとはどういう意味か?きっと、そういうことなんだろう。

BECKが噂通りのダメ映画だった

映画のBECKが地上波でやってたので見ました。いろんなところで駄作との噂を聞いていたのですが、噂に違わぬダメな映画でした。

 

 

 

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漫画はとてもおもしろいので、オススメです。適当なあらすじとしては、内気な少年コユキくんがギターと出会ってバンド組んで、そしたら実は歌がめちゃくちゃ上手いことが分かって、のし上がっていくお話。
 
そもそも音楽をベースにした映画って、実写化する際に、「きちんと音楽表現できるの?」ってところが一番ネックになるのかと思います。そういう点で、演技+音楽の両方のスキルがある人材がいないことから、恐らく若年層主役の映画は実現するのが特に難しい。
今回で言えば、コユキ高校生且つ圧倒的に人を惹きつける声の持ち主という設定なので、それだけで難易度鬼レベル。しかし、なぜか主役はイケメン俳優佐藤健。それだけで不安が夏の入道雲のようにもくもくと立ち上ります。
 
しかし、BECK好きなので見てみると、導入はそれなりにおもしろい。ああ、ここ漫画であんなシーンだったけど、実写化するとこうなるのか。ふーん。
そんな風に生暖かく保護者気分で見守っていくと、いよいよ最初のコユキが歌うシーンが…!!
 
 
 
あれ…
 
声がない…
 
 
 
そうなのです。コユキの歌うシーンは最後まで取っておくつもりなのか、歌うときだけなぜか無音になり、歌った後に周囲の人間がビビって見せることで歌の上手さを表現する画期的な演出。
 
で、そのあとも何回かコユキの歌うシーンが出ては無音になり、次は来るかと思っては無音になり、そしてラストのライブシーンも終わり、いつ来るかと思ってたら…
 
 
 
そのまま映画が終わった!!
 
 
そう、この映画では、原作のコユキの歌の上手さを表現できないと判断したのか、全ての歌のシーンを無音で表現するという画期的な誤魔化し方を取り入れたのです!!(演奏は流れているので、無音というか口パク?)
 
何を言ってるのか分からないと思いますが、僕もポルナレフ状態です。
 
ちなみに口パクなのに歌詞が出たりもします。歌ってないのに歌詞読んでどうすりゃいいんだ。意味が分かりません。
 
この映画は、南竜介役の水嶋ヒロが棒演技だとか、サスペンス部分が実写にしてみると非現実的でマヌケすぎるとか、いろいろダメな点はあるんですが、そういうのは別にいいんですよね。
音楽をモチーフにした映画って音楽それ自体がチートなぐらい観てる人を楽しませるパワーを持っているので、細かいことはどうでもいいんです。適当に起承転結つけて最後のライブシーンで感動できれば、もうそれだけで満足度高いんです。全て途中の出来の悪さを吹き飛ばすカタルシスがあるんです。
 
ちなみに、バンドのメインボーカルは桐谷健太で曲によっては彼が歌うシーンもあるんですが、そっちはちゃんと歌ってる。この曲はとてもいい曲で、桐谷健太自体は別に上手くなくとも演出とストーリーの盛り上がりが相まって、かなりテンション高くなれます。
しかし、その後コユキのターンになって、また無音…これは萎える…
 
もうね、無音とかありえない。表現者としてただの逃げにしか思えない。たしかにコユキの役を出来る人間なんてそうそういないだろうけど。でもきちんとやりきる自信が無いなら、そもそも実写化しなけりゃいいのに。
 
そんな感じでガッカリ感しか残らない映画でした。
 
 

評価

50点(100点満点中)
 
 

ちなみに

バンド漫画の映画化としては、NANAって神懸かってすごかったなーと思います。映画の出来はさておき、NANA役が中島美嘉で歌が上手くてイメージも合ってておまけに楽曲も神曲ですからね。
これぐらい、きちんとやりきって欲しい。

 

 

ちなみに2

最後に歌を歌ってハッピー系映画は名作が多いですが、僕が今でも一番印象に残っているのが「カンナさん大成功です!」という韓国映画です。
主役の女性がデブでブスのゴーストシンガーなんですが、整形して歌手として表舞台に立っていく話。
ストーリーはありきたりなものの、主役のカンナさん整形後がめちゃくちゃかわいいのと、ラストで歌う「MARIA」という曲がビビるぐらい迫力があって、とても良いです。
韓国国内では、公開した2006年に最も流行った映画だとか。
 
 

これから死ぬ人に会いに行く

危篤という言葉を最初に覚えたのはいつだったか。たぶん小学生ぐらいだと思う。なんのアニメか絵本か知らんけど、電報で「ハハキトク、スグカエレ」みたいな。これって初出はなんなんだろう?よくわかんないけど、幼いながら電報イコール危篤というのはそのとき覚えた。

しかし、それ以来危篤という言葉は物語の世界でしか僕は触れることはなくて、齢30になって突然初めて使う機会が訪れたのだった。僕の祖母が、危篤なのだ。

祖母に会いに仙台に向かっている。誰もが今回会うので最期になると言っていた。最後ではなく最期。これまた知っていてもなかなか日常で使わない言葉シリーズ。

この歳にもなって、僕は親しい人が亡くなったことがない。だからみんなが最期だと言いつつ、僕は正直なところよくわからない。僕は親の実家が両方とも県外でなかなか遠いため、会うのは数年に一度なので、実際亡くなったところで僕の生活が何か変わるかと言えば変わらない。数年に一度会ってた人が、これから死ぬまで数十年会わなくなるだけだ。それはどういうことなのだろうか?よくわからない。とても混乱している。これは寂しいという感情なのだろうか?

ばあちゃんは、この世の中のほとんどのばあちゃんはそういうものかもしれないが、とても僕に優しかった。そして甘やかしてくれた。遊びに行くとお小遣いをくれた。僕はいつも遊びに行ったら、いつお小遣いをくれるのか待ちわびていたひどい少年だった。そして僕の好きなうなぎをいつも食べさせてくれた。なぜか甘いものか好きではないのにクリームソーダは好きだった。僕はあのメロンソーダという液体が美味しいとは思えないのだけれど、クリームソーダにした途端美味しくなるのがなぜなのか、今でもずっと不思議だ。僕が子供の頃顔が大きいことを気にしていたら、顔が大きいほうが遠くからよく見えて良い、だからあなたは舞台役者とかに向いているだろうと褒められた。少年の頃はそれもそうかと納得していたが、大人になってから舞台役者は別に顔が大きくないことに気付いた。顔が大きくて得をすることは、おそらくほとんどない。ばあちゃんは母にとてもよく似ていた。何度か少年の頃ばあちゃんのヌードを見たことがあるが、母とそっくりだ。母はその裸体に向かって最近太りすぎだと嘆いていたが、僕はばあちゃん以外のばあちゃんのヌードを知らないので、ばあちゃんとはそういう体型のものだと思っていた。その日から20年経って、ますます母はあの頃のばあちゃんによく似てきていると思う。

ばあちゃんがどんな風に生きてきたか、あまりよく知らない。生まれは大正15年だ。大正って、はいからさんが通るとかそんな時代だ。もうちょっとがんばれば坂本龍馬にも会えたのではないか?知らんけど。なぜ仙台に住んでいるのかというと、戦争で樺太に住んで敗戦して日本に帰ってきて、そこから仙台に住んだらしい。樺太とか、歴史の授業以外でそのとき初めて聞いた。暮らしはとても大変だったらしい。知らんけど。

mixiを見返したら、ばあちゃんが寝たきりになった当時の日記があった。7年前だった。随分と前でびっくりした。ボケてしまって7年間僕が誰か分からない生活を続けていた。最近はずっと寝たきりだったので、もう本当に最期だろう。

あと数時間後にばあちゃんに会っても、ばあちゃんは僕のことは分からない。僕は何をしに会いに行くのだろう?よくわからない。会ってもきっと話すことはない。もし伝えられる言葉があったら?ありがとう、ではないな。なんだろう。


なんでこんな夜中にこんな数ヶ月ぶりにひっそりとこのブログに書いているかといえば、もうすぐ僕のばあちゃんは過去の存在になってしまうからだ。だから、現在のうちに、書いておきたかった。
もう遅いんだけど。どうしようもないんだけど。